メディアの見た親鸞会

まえがき 親鸞会って何だ?

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筆者が宗教法人浄土真宗親鸞会(以下親鸞会)に関心を持ったのにはきっかけがある。所属する研究室に配属された学部生T君がその会員だったのだ。

そのT君が研究室での実験の合間に熱心に本を読んでいた。あえて説明の必要はないと思うが、現今の学生が実験の合間に読むのは良くて教科書、ほとんどは漫画である。彼が読んでいたのは仏教書であった。なぜそんなものを読んでいるのかと聞くと親鸞の本だという。そのとき初めて親鸞会のことを聞いた。

T君は大学院まで進学して今は大手の電機メーカーに勤めている。その後も幾人かの会員が同じ研究室に配属された。彼らの会についての関心も高まり、意識して文献を探すようになった。

立場上様々なうわさも聞いた。しかし、多くの人が指摘しているように、親鸞会に反社会性はない。カルトとも言えない。こと学生だけをみれば、彼らは押しなべて真面目である。私の知るかぎり酒もタバコもやらないようだし、聞けば故郷の両親に、定期的に手紙を書いている会員も多いという。

しかし反面、今どきの若者にはめずらしいストイックさからか、親鸞会は誤解されやすい一面も持つ。

ここでは一般に出回っている書籍や新聞記事などメディアがとらえた親鸞会の姿を紹介する。それほどの分量はない。しかしこの団体を知る上での大きな手がかりにはなるだろう。

平成10年2月19日 品川

【WEB公開に当たって】
「メディアの見た親鸞会」をWEB上で公開することにした。親鸞会の社会的認知度も上がり、多くの人が情報を求めていると判断したからだ。参考になれば幸いである。(平成15年10月)

メディアの見た親鸞会(岩波書店)  真宗「原理主義」の挑戦――浄土真宗親鸞会

岩波講座 日本通史 第21巻 (岩波書店 平成7年初版発行)
宗教意識の現在 3.「土着型」新教団の台頭 真宗「原理主義」の挑戦
著者 小沢浩 (元富山大学学長)

『岩波講座・日本通史』に親鸞会が紹介されている。
著者は、元富山大学学長の小沢浩氏だ。
この本の中で小沢氏は、
「現代の宗教的漂泊者にとって、安住の地はどこにあるのか?」
という自ら書き起こした問いに対して、親鸞会に注目し、かなり長い文面を割いている。
まず、
「(親鸞会は)近年に創設されたという意味では、紛れもない「新」宗教教団でありながら、どこかに、いまどきの「新宗教」教団には見られない新たな特色がある」と著し、この後、以下のように書いている。

まず、浄土真宗親鸞会(以下親鸞会と略す)の創始者で、会員からは「昭和の善知識」と仰がれている会長高森顕徹の横顔と、会の簡単な歴史について述べておきたい。親鸞会では、教祖はあくまで親鸞聖人であるという立場から、新宗教と呼ばれることを好まず、高森も自らを親鸞学徒と唱えて、自身については多くを語っていない。したがって、その生い立ちなどには不明の部分も少なくないが、およそのところは以下のとおりである。

 彼は一九二九年(昭和四)、能登半島の付け根にある漁業の町、富山県氷見市の本願寺派寺院に生まれた。今年で満六六歳になる。四五年の敗戦の年に、彼は一六歳で特攻隊に志願し、戦後復員してきた。親鸞会の組織には上隊・中隊などの軍隊式の名称が使われているが、これは彼の戦争にたいする批判とは別に、軍隊組織にたいする一定の評価があるからだと言う。復員後間もなく、彼は龍谷大学の専門部に進み、翌年、一八歳のときに信心決定、つまりは揺るぎのない信心を獲得したといわれる。在学中弁論大会で優勝したときの演説の再録を見ると、このころからすでに本願寺の腐敗堕落を憂え、真宗改革の志に燃えていたことがうかがわれる〔浄土真宗親鸞会、一九八四〕。

 一九五一年、龍谷大学の仏教学部を卒業した彼は在学中からの布教活動を強化し、翌年、早くも六八名の会員を集めて「徹信会」を発足させた。これが親鸞会の前身である。そのころの高森は、よく「死線を越えて」という腕章をつけて、辻説法に立っていたという。やがて、活動の拠点は次第に富山県西部の中心都市高岡市に移り、五七年同市前田町に布教のセンターともいうべき徹信会館(後の親鸞会館)が建設された。翌五八年、会は宗教法人となり、会名も浄土真宗親鸞会と改まる。この間、彼は四七年に得度して僧侶の資格を得ているが、七〇年には本願寺派の僧籍を離脱している。

 ここから後は会の歴史をたどることになるが、会誌『顕真』所載の年表を見ていくと、そこここに創価学会などの新宗教や本願寺(西)との対決の跡が記されている(『顕真』154号)。破邪顕正を祖師の遺訓とする親鸞会は、破邪のエネルギーによって教勢を拡大してきたといっても言い過ぎではない。その名も『顕正新聞』と命名された機関紙が発刊されたのは、創価学会との対決がピークに達した一九六二年のことであった。七〇年代になると会の組織化も進み、『こんなことが知りたい』『白道燃ゆ』などの高森の著書の刊行が開始され、七六年にはブラジル布教が、七七年にはアメリカ布教が始まる。しかし、教団史に残る出来ごととして人々の記憶に新しいのはやはり、八○年からの西本願寺との全面対決であろう。

 それまでにも両者は、教義に関する見解の違いをめぐってビラ合戦などを展開していたが、七九年一二月、本願寺派の教学研究機関伝道院の紀要に紅楳英顕の親鸞会を批判する論文が掲載され〔紅楳−一九七九〕、これにたいする親鸞会の質問に紅楳が誠実に答えないということから、事態はエスカレートしていく。まず八○年五月、親鸞会青年部・学生部(現学友部)の会員約一〇〇〇人が西本願寺境内に集結して抗議集会を開き、マスコミもこれをいっせいに取り上げて世間の耳目を集める(『顕正新聞』217号)。その後も親鸞会は執拗に追及の手を休めず、翌八一年には両者の交わした書状と高森の反論を載せた『本願寺の体質を問う』を刊行する。つづいて八二年には、業を煮やした親鸞会会員約五〇〇人がふたたび本山の堂内に座り込み、抗議のアピールを行うが、ここにいたって本願寺も対応を迫られることになり、同年末には紅楳の『派外からの異説について』と、宗教問題研究会の名による『現代の教学問題−派外からの論議について』という反批判の書が公刊された。しかし、これはかえって火に油を注ぐ結果となり、翌年早々親鸞会は両書にたいする公開質問状を提示する。そしてふたたび書簡による応酬の後、八四年一月、明確な回答を求めた一五〇〇人の会員が三たび西本願寺に集結し、深夜にいたる抗議行動におよんだ。同年親鸞会から刊行された『本願寺なぜ答えぬ』は、その間の経緯を詳らかにしたものである。このような実力行使についてはさまざまな評価がありえようが、少なくとも親鸞会にとっては、この対決が、その後の発展の跳躍台になっていることは疑いない。(余談になるが、この論争に関する公平な判断を得たいと伝道院を訪ねた筆者は、関係資料はおろか『伝道院紀要』さえ見せてもらえず、早々に追い返されてしまった。あつものに懲りてなますを吹く体の怯えように、筆者は西本願寺の凋落ぶりを思い、嘆息せずにはいられないものがあった。)

 それはさておき、この間高岡市に置かれていた本部は、一九八八年、富山市に隣接する小杉町の丘陵地に移転し、五〇〇〇人を収容する大小二つの講堂をはじめ、アリーナ・子供室・食堂・納骨堂などを備えた大規模な会館が建設されて、その面目を一新した。現在の会員数は約一〇万人で、支部は全国に行き渡り、教勢はさらに南米・北米・台湾・韓国にまで及んでいる。

 次に、教義の概略について見ておきたい。高森の基本的な認識を支えているのは、今日の本願寺の信心が祖師親鸞聖人のそれから甚だしく逸脱しているという危機感である。このため彼は、親鸞聖人や蓮如上人の教えを、原典どおり一字一句忠実に護ることを信心の要諦としている。その場合、教典の解釈は必ず唯一無二のものでなければならず、親鸞会にあっては自ら、高森の解釈がそれであるとしている。親鸞会の「邪義」にたいする激しい攻撃も、このような「真宗原理主義」ともいうべき厳格主義と表裏をなすものと言えよう。また、こうした原理主義そのものが、近年の一部外来系のものを除く新宗教にあっては、珍しいものであることに注目したい。

 それはともかく、親鸞会では、本願寺の邪義を正し自らの信心の指針とすべきものとして、親鸞聖人が三四歳のとき本願の本意をめぐって法然上人門下の三百余人の法友たちと戦わせたとされる三回の論争、いわゆる「三大諍論」と呼ばれるものをことのほか重視し、法話やパンフレットのなかなどで頻繁に引用している。次にその要点を紹介しておく。いずれの論争も、覚如上人の「口伝鈔」や「御伝鈔」に記されているものだが、ここでは「真の故郷法の城」と題する親鸞会の布教用パンフレット所収のものに拠る。親鸞会のニュアンスを伝えるためである。

 まず、第一の論争は、「体失不体失の諍論」と呼ばれる。「ある時、法然上人の高弟善恵房が、〈阿弥陀仏の救いは、肉体の亡びた死後に得られる。これを体失往生と言う〉と説法していた。それを聞いていた親鸞聖人は言われた。〈阿弥陀仏の本願は死なねば助からないという体失往生ではない。現在この世から救われる不体失往生なのだ〉と。ここに、救われるのは現在か死後かの大論争が起きたが、やがて師の法然上人が来られて言われた。〈平生にすべての人々を救うというのが阿弥陀仏のお約束である。不体失往生を主張する親鸞の方が正しい〉」(「口伝鈔」)。パンフレットでは、この後に「仏教の救いは、平生この世ではっきり体験できるのです」と続けている。「救いは死後に」という真宗のいわば「常識」打破をねらったものにほかならない。

 第二の論争は、「信行両座の諍論」と呼ばれる。「ある時、親鸞聖人は法然上人の許可のもと、法然門下の三百八十余人の弟子たちに質問された。〈今私は、信の座敷と行の座敷、二つの座敷を用意した。念仏を称えたら阿弥陀仏に救われると思う人は行の座に、念仏一声称えずとも信心ひとつで救われると思う人は、信の座にお入り下さい〉。これに対して、ほとんどの者は行の座に入り、信の座は親鸞聖人を含めてわずか四人であった。最後は法然上人の採決となり、上人も信の座に入られて、阿弥陀仏の本願に救われるのは信心一つと明らかにされた」(「御伝鈔」)。パンフレットでは続けて言う。「いくら念仏を称えていても本願に対する疑心のある間は救われません。ツユチリ程の疑心もなくなった時に救われるのですが、そうなった事を信心決定、と申します。浄土真宗の念仏は、救われた人のお礼の言葉であります。故に親鸞聖人の教えは、信心正因称名報恩、これを骨格とします。今日も、多くの人が念仏を称えたら救われると思っていますが、大変な間違いです」。これまた、いまひとつの「常識」打破を目指すものであることは明らかであろう。

 第三は「信心同異の諍論」である。「ある時、親鸞聖人が、法然上人の高弟勢観房、聖信房、念仏房に対し、〈私の信心も、法然上人のご信心も、全く同一である〉と宣言された。しかし、信心決定していない三人の弟子達にその実感はない。そこで、〈私らのような者が、どうして知恵第一の法然上人のご信心と一緒になれようか。信心は異なってこそあたり前、親鸞の言葉は、わが師匠を冒涜するものだ〉と非難した。法然上人は双方の言い分を聞いて言われた。〈信心の異なるというのは、自力の信心、いまだ阿弥陀仏に救われていないのだ。阿弥陀仏よりたまわる他力の信心の喜びは、全く同一であり、親鸞の主張が正しい〉」(「御伝鈔」)。そして読者に対し、「〔あなたも〕親鸞聖人の出られたと同じ世界を体験できるのです」というわけである。真理の前には万人が平等であるというこのような原理主義的ラディカリズムも、いわゆる「常識」のなかでは極めて希薄なものにちがいない。

 この三つの論争は、真宗聖典にもあるほどのものだから、むろん本願寺のオーソドキシーから外れたものではない。しかし、それはあくまで教学レベルのものであり、現場の末寺門徒のレベルでは、上述の「常識」がまかり通っている。そうした二重構造のなかに真宗信仰の「現実」があるのであり、本願寺はそれを意図的に使い分けているのだ、とも言えよう。親鸞会は、本当はその矛盾をついているのだが、本願寺はそこが弁慶の泣き所なので、議論がすれ違ってしまうのである。このような「現場」のレベルを、大村英昭は、世俗的なものと馴染みやすいカトリックの信仰になぞらえて「真宗C」と呼び、「教学」のレベルを、原典に忠実たらんとするプロテスタントに譬えて「真宗P」と呼んでいる。そして、自らも真宗寺院の住職である大村は、「教学なき現場」「現場なき教学」という言葉でこの現実を表現している〔大村−一九九〇b〕。言い得て妙というべきであろう。

 ところで、この「三大諍論」は、親鸞会からすれば、本願寺のいわば「邪義」を正すためのものだが、親鸞会はむろん、真宗地帯の門徒大衆だけを布教の対象としているわけではない。その意味で、広く一般の大衆にたいしては、これをいま少し敷衍したかたちで説いている。それは、およそ次のようにまとめられるであろう。

 親鸞聖人の教えは「平生業成」の四字に集約される。平生とは現在只今ということである。業成の業とは人生の大事業、目的のことであり、成とはそれを成し遂げることである。その人生の大事業、目的とは何か。生きとし生けるもの誰しも幸福を望まないものはないが、その幸福にも、相対の幸福と絶対の幸福とがある〔高森−一九七四〕。健康で金があって好きな人と暮らせる、などという世間一般に考えられているものを相対の幸福という。それはいつ無くなるとも判らぬ無常のものだからである。されば、永久に変わらぬ絶対の幸福を得ることこそ、人生の究極の目的と言わなければならない。それでは絶対の幸福とは何か。それは、人として生まれた以上必ず迎えなければならない「死」の問題、すなわちそのままでは「必堕無間」「地獄一定」と言われる「後生の一大事」を解決し、生きてあるうちに障りのない大安心の世界、いわゆる「無碍の一道」(「歎異鈔」)に出ること、これである。そして、「信心決定」こそが、そのための絶対条件であることは言うまでもない。その信心とは、自分がいかに深重の罪悪を背負った救いがたい人間であるかということを、ツユチリほども疑わず、さればこそ、そのような人間を憐れんで「もし救わずば正覚を取らぬ」と誓われた弥陀の本願を、これまたツユチリほども疑わない(これを真宗では「二種深信」と言う)、そのような境地のことである〔高森−一九七九〕。

 これが、筆者の理解するかぎりでの親鸞会の教えのあらましだが、親鸞会では、そのような信心獲得のための不可欠の前提として、なによりも「宿善」(過去世に積んだ善根、獲信のための良き因縁)を積むことを勧める。その場合、最も重視されるのが聞法、つまり法話(とりわけ高森会長のそれ)を聞くことであり、いまひとつは財施、つまり法のために財を施すことである。このうち財施のほうは、いかなる教団にも共通するものだが、聞法の重視は親鸞会を際だって特徴づけているものと言えよう。

 このため高森は、毎週土・日を法話の日に当て、本部親鸞会館をはじめ、全国各地を駆けめぐり、昨年の例でいえばその間に韓国布教とブラジル布教を敢行するというハード・スケジュールをこなしている。それ以外の日にも、ほとんど毎日のように、さまざまな講師による法話や講義が各地で開かれ、会員たちは競い合って聞法に励んでいる。

 次に、本部の親鸞会館における法話の模様を再現してみよう。まず、土曜日の夕刻から高森会長と会員との質疑応答の集会があるが、法話は翌日の日曜日に行われる。当日は朝早くから会員がバスや自家用車を連ねてやってくる。駐車場の車のナンバープレートを見ると、北は東北から西は中国地方まで、遠方からのものが少なくない。九時を過ぎると広い講堂はほぼ満員となる。見たところ年齢層も性別も平均しているが、青年層では、胸に大学名を書いたプレートを付けている学生部(現学友部)の会員が目立って多い。ちなみに、一九九三年一〇月に行われた講師試験の合格者を見ると、二一名のうち学生部(現学友部)に所属する者が一〇二名と圧倒的多数を占め、大学別では、阪大一三、京大九、東大八、早大八へ岡山大七、名大五、神戸大五、関学五、富山大四、明大四等々、いわゆる名門校が上位を占めている(『顕正新聞』476号)。

 九時半から勤行が始まる。まず全員で「真宗宗歌」を歌い、つづいて「正信偈」を最後まで唱和する。五分の休憩のあと司会者が現れ、四カ条の「会員信条」を読み上げる。その後、司会者は自らの信仰体験を語り、ついで施主名を紹介し、高森会長の法話を聞く心構えについて注意して退場する。一〇時一五分高森会長が現れ、正面の仏壇を背にして法話が始まる、ふつうは講師の一人と問答形式で話を進めていく。本部親鸞会館の法話ではたいてい「正信偈」か「歎異鈔」の講義が中心となるが、各地の会場の法話では「王舎城の悲劇」など、俗耳に親しみやすいテーマが取り上げられる。ときおりユーモアを交えながらの、噛んで含めるような高森の語り口には、なかなか魅力的なものがある。途中一五分の休憩が入り、最後に「恩徳讃」を歌って一二時に午前の部が終了する。一時半に午後の部が再開され、午前と同じ手順を踏んで二時一五分から四時まで高森の法話が続き、やはり「恩徳讃」を歌って一日のスケジュールが終わる。この間、正味五時間におよぶ畳の上での正座は、難行苦行を言わない真宗にしてはなかなかハードなものである。

 そうしたなかで極めて印象深いのは、先述の学生部(現学友部)の青年たちが、高森会長の話をひと言も漏らすまいと身じろぎもせずに聞き入っている姿である。年齢的にも地域的にも真宗の信仰とはもともと縁の薄いと思われるこれら若者たちの心を、いったい何が引きつけているのであろうか。

 親鸞会には「親鸞聖人の教えを伝える総合誌」と銘打った『とどろき』という月刊誌があるが、その一昨年の号まで、若者たちの入信の動機を伝える「とどろきヤング」というコーナーがあった。そのなかに筆者の担任のT君のものがあるので、彼のケースについて紹介してみよう。T君は中学・高校と陸上競技をやっていた。一〇〇メートルの自己ベストが一〇秒九という駿足で、「群馬のカモシカ」と呼ばれていた。その彼が中二のとき、陸上の全国大会があり、参加したくてがむしゃらに頑張った。そして、念願を果たしたのに、目標が余りに大きかったためか、終了後プツンと何かが自分のなかで切れてしまった。大学受験に向けても真剣になれず、惰性の日々のなかで、人生をかけて悔いのないものを捜し求めた。やがて富山大学に合格し、入学の手続きに来たとき、構内で先輩から「人生の目的を考えたことがありますか」と声をかけられた。大学にもこんな真面目なサークルがあるのだと思って付き合ってみると、そこで初めて、死に直面しても崩れない絶対の幸福を得ることこそが人生の目的だと知らされた。今は最高の充実感で満たされている(『とどろき』一九九三年)。

 同じ欄の他のケースを見ても、状況の違いはあれ、なんらかの自己喪失感を前提とし、「あなたの生きる目的は?」の一声にびかれて(あるいは虚をつかれて)入会している人たちが圧倒的に多い。

 これには実は雛形がある。それは、現在親鸞会の弘宣部長をつとめる浅倉保のケースである。彼には『かくて私は人生の目的を知った』という著書があり、若者の信仰の手引きとして多くの版を重ねている。それによると、一九六七年当時、沼津工業高等専門学校三年生に在籍し設計技師を目指して勉学に励んでいた彼は、ふと、自らの職業選択の理由のあいまいさに気づく。そんなおり、たまたま亀井勝一郎の『青春をどう生きるか』という本に出会って、職業の選択以前に、自分は「何のために生きているのか」という根本問題が解決されていないことを悟る。そこで、学業を放棄し、落第も覚悟でその一年を人生の目的解明に当てることを決意した彼は、亀井勝一郎を手始めに、洋の東西にわたる作家や哲学者の万巻の書物を手当たり次第に読みはじめる。やがて、トルストイの『懺悔』などの影響で次第に虚無感を深め、これもトルストイの示唆によって、最後の望みを宗教に託する。キリスト教を経て親鸞の教えにまでたどり着くが、まだ腑に落ちぬものがある。そうして、いよいよ落第が目の前に迫ってきたころ、悩みを打ち明けた友人から、当時滋賀県の米原町にあった親鸞会のことを教えられ、とりあえず高森会長の法話を聞きに行く。そこでは、今でもさまざまな機会に引用される『譬喩経』のなかの「人間の実相」の譬え(猛虎と毒竜のはさみ撃ちに遭って細い藤蔓に自らの運命を託する旅人の話)や親鸞聖人の信心決定までの話を聞かされるが、とくに「体失不体失往生」の諍論の全貌を聞くにおよぶや、彼はこみ上げてくる感激とともに、ここにこそ自分の求めてきたものがあると確信する。こうして「青春の彷徨に終止符を打った」彼は、勇躍郷里の千葉に帰って両親を説き伏せ、親鸞会の人となる。「私はついに知ることを得た。人生究極の目的は信心決定であることを」。彼の本はこのように結んでいる〔浅倉−一九七一〕。

 この浅倉の体験は、その読書の傾向からしても、いかにも旧世代の人のそれのように思われる。しかし、「とどろきヤング」の若者たちの語る入会の動機を見ていると、この浅倉の体験にどこかで自分自身を重ね合わせて見ているふしがある。それは、人生の意義や目的を見失ったものの不安と、それを見出したときの喜びに、彼らが深く共感するものがあるからにちがいない。既存の新宗教教団の教勢がやや伸び悩んでいるなかで、親鸞会が意外な健闘ぶりを見せている理由の一端を、そこにも垣間見ることができるであろう。

ここで、要点をまとめてみたい。

1:親鸞会の教祖はあくまで親鸞聖人という立場をとっている。
  新宗教と呼ばれることを好まず、創始者である高森顕徹氏も自らを親鸞学徒と唱えて、自身については多くを語っていない。

2:親鸞会の活動は、祖師の遺訓である「破邪顕正」の活動である。
  相手は、伝統宗教、新興宗教を問わない。

3:高岡市に置かれていた親鸞会の本部は、1988年、富山市に隣接する小杉町の丘陵地に移転し、5000人を収容する大小二つの講堂をはじめ、アリーナ・子供室・食堂・納骨堂などを備えた大規模な会館が建設された。現在の会員数は約10万人で、支部は全国に行き渡り、教勢はさらに南米・北米・台湾・韓国にまで及んでいる。(当時)

4:親鸞会は、今日の寺の信心が祖師親鸞聖人のそれから甚だしく逸脱しているという危機感から、親鸞聖人や蓮如上人の教えを、原典どおり一字一句忠実に護ることを要諦としている。
 近年の新宗教にあっては珍しい。

5:親鸞会は、真宗地帯の門徒大衆だけを布教の対象としているわけではなく、広く一般の大衆に対して行っている。

6:聞法の重視は親鸞会を際だって特徴づけているものと言える。

7:親鸞会の本部での法話ではたいてい「正信偈」か「歎異抄」の講義が中心となる。
最後に「恩徳讃」を歌って終了する。

8:人生の意義や目的を見失った不安と、それを見出したときの喜びに、深く共感した人々が集まっている。
これは、既存の新宗教教団の教勢がやや伸び悩んでいるなかで、親鸞会が意外な健闘ぶりを見せている理由の一端と見ることができる。

以上8つの項目にまとめてみた。

このように、親鸞会には、新興宗教には見られぬ特徴が多くあると小沢氏は著している。
特に、教祖を、親鸞聖人としている点に注目してみたい。
ここが、他の新興宗教とは異なる大きな点だからだ。

通常、信仰宗教は、「我こそ仏の再来である」「神と仏を超える存在である」と語り、自己の誕生の日には、盛大に祝う。
(PL教の教祖生誕の日に行われる日本最大級の花火大会などは有名である)

ところが、親鸞会の場合、高森顕徹氏の誕生会すら行われない。
そして、高森氏自ら「一親鸞学徒」と名乗り、教祖と呼ぶものは会員にもいないようだ。

そういう点で、小沢氏が著している
「近年に創設されたという意味では、紛れもない「新」宗教教団でありながら、どこかに、いまどきの「新宗教」教団には見られない新たな特色がある」
という言葉は適切と言えるかもしれない。

さらに注目すべきことは、著者である小沢氏が実際に親鸞会の講演会場まで足を運び、実際の目や耳で親鸞会の情報を得ているところだ。

これは単に、情報の切り売りではない。
だからこそ、その内容は非常に細かく、具体的で、情景が目に浮かぶほどである。

また、親鸞会にだけではなく、寺にも足を運び、必要な資料を手にいれようとしている。
(本願寺には情報提供を断られ、その現状に寺の凋落ぶりを感じて落胆しているが)

このように、実際に足を運び、複数の書籍に目を通し、親鸞会の歴史を調べ、岩波講座に著したという点で、貴重な内容になっていると思われる。

メディアの見た親鸞会


(1) 真宗王国と新宗教「蓮如さん今を歩む」 (北国新聞社 平成8年初版発行)
  第一部 世は乱れ法もなく−法話に集まる若者たち
  北国新聞社編集局編

(2) 富山新聞 平成9年10月28日号 掲載記事
  「神よ仏よ」 信仰厚き北陸路を行く

(3) RENNYO THE SECOND FOUNDER OF SHIN BUDDHISM (Asian Humanities Press, 1991)
  Minor L & Ann T. Rogers
  「蓮如」 マイナー・T・ロジャース アン・T・ロジャース 共著

【別サイト】
浄土真宗親鸞会 真宗「原理主義」の台頭

親鸞会参考リンク

浄土真宗 親鸞会
親鸞会ブログ
親鸞会 親子ネット
親鸞会イミズム
親鸞会ルボアール
親鸞会総合リンク集
親鸞会の真実 なにが息子を変えたのか
自殺サイト なぜ死んではいけないのですか?

浄土真宗親鸞会批判の真実

真宗大谷派 (東本願寺) TOMO-NET
浄土真宗 本願寺派 (西本願寺)
真宗教団連合

宗教関連リンク集

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